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縄文時代と火焔型土器のクニ

縄文時代と火焔型土器のクニ

十日町市は縄文時代遺跡の宝庫です。国宝・火焔型土器をはじめとする市内出土品を中心に、現代につながる縄文人の知恵や思いを伝えます。

縄文時代と
火焔型土器のクニ

火焔型土器のクニ 十日町

この展示では、国宝・新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器(57点)の中に含まれる、著名な火焔型土器、王冠型(おうかんがた)土器のほか、多数の土器を展示しており、縄文時代の土器文化を知ることができます。

火焔型土器は縄文時代中期(紀元前3,400~2,400年頃)の中頃に現在の新潟県域で栄えた土器様式です。隙間なく立体感にあふれた文様と均整の取れた造形美を有しています。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、前3,300年頃に信濃川中流域で成立し、同地域のなかで継続、発展したと推定されています。

しかし、前2,800年頃までには姿を消し、あとには隣接する東北地方南部や長野県北部から影響を受けた様式が続きました。土器の様式はコミュニティ間の社会・経済的関係の強さや観念体系の表現でもあります。他地域に系譜のある土器が主体を占めるようになった背景には、社会・経済や観念体系を同時期に変化させるような劇的な出来事があった可能性を秘めています。

火焔型土器は一般に祭りなどの儀礼に使用することがあったと思われていますが、いまのところその使用状況を示す証拠は得られていません。内面にオコゲが付着することがあるため、煮炊きに使われたことは確実です。

縄文時代の十日町

この展示室では、晩氷期に縄文人が滞在した貴重な場所である本ノ木・田沢遺跡群からの出土品や、後氷期の定住集落からの出土品(国宝を含む)を展示しており、縄文時代の十日町の様子を知ることができます。

日本を含む極東アジアの人々は、晩氷期(紀元前14,000~9,500年頃)に移動生活をしながら土器づくりを開始しました。日本列島では主に川をのぼってくる魚類を調理するのに使っていました。晩氷期の期間はちょうど縄文時代草創期と重なります。

十日町市でも前13,500年頃から信濃川と清津川の合流点近くに季節的に滞在して魚類を加工しており、その証拠としてたくさんの土器が出土しています。列島にこのような滞在場所は多くはなく、様々な好適条件が重なり合う貴重な場所だったと推定されます(史跡本ノ木・田沢遺跡群)。

後氷期(前9,500年前~現在)の温暖な気候になると、森林が発達し、食糧資源が豊富になり、人々は定住生活を始めました。本格的な縄文時代(早期)の幕開けです。家財道具を持ち運ぶ制約から解放されたことにより、それまで様々な用途に使いまわしていた道具はそれぞれに最適な形に作り直され、種類が増えました。また人口が増えて社会が複雑になり、地域間の交流も活発になりました。そして旧石器時代から縄文時代草創期(前36,000~9,500年頃)とは異なる最も大きなことは、宗教的観念や儀礼体系が明らかに目に見える形で形成されたことです。おなじみの土偶や石棒を利用した儀礼が執り行われ、そして死者を葬るための墓が作られたのです。

しかし、列島の中でも気候や食料環境に大きな差があったため、定住の開始は地域ごとに異なりました。十日町市では縄文時代早期までは滞在場所はあっても集落はありませんでした。明確な定住集落が形成されたのは、縄文時代前期(前5,200~3,400年頃)のことです。中期(前3,400~2,400年頃)に最も人口が増え、多くの集落が形成されました。火焔型土器を作り出したのもこの時期です。

彼らの文化は次第に変化しながらも、大陸から伝わった稲作を始めるまで(前1,000年~250年頃)1万年以上も続きました。十日町市では稲作の証拠は得られていませんが、周辺地域との関係からおよそ前400年頃に始めたと推測されています。

縄文人は長い間、豊かな天然資源を背景にした狩猟、採集、漁労に大きく依存していました。この間、大陸との交渉はほとんど行っておらず、早くから農耕や牧畜を始めた大陸と異なる独特な文化を形成しました。

令和5年度の国宝展示室 中央展示ケースの展示内容と展示期間について

国宝展示室にある中央展示ケースは、国宝・指定番号1と国宝・指定番号6を入れ替えて展示しています。展示スケジュール等の詳細については下記リンクをご覧ください。
国宝中央展示ケース展示期間