1. HOME
  2. ブログ
  3. じっぱくブログ
  4. 「宮本茂十郎」の本当の名前

「宮本茂十郎」の本当の名前

江戸時代後期の文政12年(1829年)。
越後縮がだんだん斜陽になり、事業転換の機運が高まりつつあった十日町村にふらりと現れた人物がいました。

職人「宮本茂十郎」です。
彼は十日町に1年か2年ほど滞在しているうちに透綾織の技術と高機とを伝えて、十日町が後に絹織物で成功を収めるきっかけを作ったことで功績のある人物です。

実は、彼の名前が実際どうなのか、問題にされることがあります。
大正年間に建てられた彼の顕彰碑には「宮本茂十郎」とあるのですが、それより前の切れ見本には「飯塚茂重郎」とあるのです。どっちなのか。

これが切れ見本の一部です。
右のページに「明治20年(1888年)、樋口八十八殿ヨリ飯塚茂重郎殿ノ切本ヲ賜ル」とあるのが分かるでしょうか。
月日が書いてないところを見ると、もらった後かなりたってから思い出して書き足したのかもしれませんが、誤差は数年でしょう。ここに嘘を記述する必要はないので、おおよそ正しいと考えてよいと思います。

樋口さんから頂いたときにきっと「モジューローさんが織ったものだよ」と伝えられ、受け取った人もそれが誰を指すのか分かり、かつそれ以上の説明を要さないわけです。新潟県が書いた明治年間(1886年刊)の文章でも「飯塚茂十郎ナルモノ」とされていますから、少なくとも「飯塚」についての客観性は十分といえるでしょう。

江戸後期の流れ職人ですから、たぶん正式な名字は持っていませんでした。「飯塚茂重郎」は、十日町にいた当時の通り名だろうと思います。記念碑の「宮本茂十郎」は「飯塚茂重郎」が通り名だったことの証左でもあります。だから、「宮本茂十郎」は、その後の称号というか諡・諡号(おくりな・しごう)のようなものとして考えればよいかと思います。

なぜこう変えたのか。

少なくとも顕彰碑を建てたメンバーの誰かにとって、「飯塚」が都合が悪い、いやもしかすると飯塚家の功績みたいなのが嫌だったのかもしれません。そこで、神社の威光にあやかれそうで且つ差しさわりがない「宮本」にしたのではないか(憶測)。

あと、「重」が「十」になっているのが気になりますが、新潟県の文章で「茂十郎」なのですから、これは顕彰碑とは関係がありません。むしろ切れ見本の段階で「十」を「重」にしたんだろうと思います。だってそのほうが重々しいから。でもあとから、やっぱり「十」のほうが十日町っぽいことに誰かが気づいて、顕彰碑のときに戻したんじゃないかと思います。「宮本」といい「十」といい、要するに誰かのではなく、みんなの茂十郎にしたかったんじゃないでしょうか。

いや~憶測って楽しいですね!

ちなみに「郎」を顕彰碑建立のときに付けたという説は、「飯塚茂重郎」の文字資料があるので現状では否決されます。付け足したとすればもっと以前のことですが、今のところ証拠がありません。

で、まじめな話、結局一番確かそうなのは「飯塚茂十郎」か「飯塚茂重郎」です。顕彰碑以後は「宮本茂十郎」。どれを用いるかは文脈次第。透綾織や高機を持ち込んだ歴史的事実を語るなら「飯塚茂重郎」か「飯塚茂十郎」、彼の業績を褒め讃える顕彰碑がらみの文章なら「宮本茂十郎」、という感じでしょうか。とはいえ、死後つけた名を正式とみなす習慣は、ここ十日町市にはありません。

ところで、名字(苗字)を付け足すといえば、越後縮を開発した(とされる)「堀次郎将俊」もそうでした。

本当は「竹屋某」とか「明石次郎」とか言われていたのに、死後ずいぶんたってから、その名前が持ち出されてきたのです。これについてはすでに批判が多いところです。
「竹屋某」だとしても、屋号が流れの職人にあるとは思えない。こっち(魚沼郡)へ来てから竹屋になったか、あるいは竹屋に寄宿したかと想像します。「明石次郎」も、明石から来たという程度の意味でしょうから、こちらも正式な名字(苗字)であるはずがない。比較的確かそうなのは「次郎」だけです。

それにしても、偉業を顕彰したいと思った人々は、後世にまさかこんなにみんなの頭を悩ませることになろうとは、想像もしていなかったことでしょう。

学芸員A